真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

仏のことばを読む四. 発菩提心 三昧耶戒の真言   その4

三昧耶戒真言
 ここでの真言は「戒」の真言です。前に十善戒という「戒」を唱えましたが、ここでの戒との違いは何でしょうか。それは十善戒がすべての仏教に共通する信仰生活での善業の誓いでした。この三昧耶という「戒」は真言密教独自のもので、真言宗の教えに入る者が誓いを立てる真言なのです。
 さて、それでは「三昧耶」とはどのような意味なのでしょうか。実は、これを理解することはきわめて難しいのです。古来より真言宗の先徳、学僧たちがさまざまな理解を試みていますが、その基本は「大日経疏(しょ) という『大日経』 の注釈書に示されています。これを探究してゆくと、背後には深い思想が秘められていることが分かりますが、ここではかいつまんで説明します。
 まず「三昧耶」には四つの意味があるとされます。その四つとは①平等②本誓(ほんぜい)③除障(じょしょう)④警覚(きょうがく)です。このうちとりわけ①平等の意味が重要であると思います。そもそも「平等」とは「一体であること」を意味します。仏と衆生が平等であるという場合、仏と衆生は一体の生命活動の中にあることを意味します。まさしくこのことが真言密教の考え方なのです。先に「発菩提心真言」に即して述べたとおり、仏と私たちの身体活動【身業】・言語活動【語業】・精神活動【意業】は一体となっているのに、私たちはそのことに気づかないので迷いの世界に留まっているのです。
 さらに弘法大師の教えに基づけば、仏と私が一体であるだけでなく、生きとし生けるものがすべて一体となって生命活動の中にあるということになります。仏と我と衆生は本来平等と説かれます。そして、この全生命活動の総体私たちは大日如来と受けとめるのです。
 私が現にここに生きているのは単独の生命活動ではありません。広大無辺な天空と果てしない大地と海や川などの多様な自然界と密接に連関しています。そこには無数の生物力それぞれに生命活動を営んでいます。しかもどれ一つとっても、広大無辺な世界と深く関連し合っています。路傍の雑草にも、微生物にも、無限の世界が映し出されて生命あるものになっています。そのどれもこれもが大日如来の生命活動の一つの現れといえます。そのような意味であらゆるものは「平等」といえます。
 しかし、私たちはこのことを忘れ、自分勝手に考え、自分だけで生きているような錯覚をします。しかし、真実に目覚めている仏は一体となっている「平等」の中で衆生を見通します。すると、そこには苦しみ悩む者が多くいます。その心の痛みは平等の世界では自分のこととして受けとめられます。それはあたかも母親が我が子の苦しみを自分のことのように受けとめるかのようです。
 そして、苦しみ悩む者の立場になって自分のことのように心の痛みを共有します。それを大悲といいます。この大悲があればこそ、仏は衆生を救おうとするのです。そして、その仏が私たちの中にもあるはずなのです。

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