毘沙門さまの功徳私たちへのメッセージ
その1
さて、七福神のいわれと毘沙門さまのお姿、それから、どういうことをなさったかということを話しました。毘沙門さまは、まず仏教の守護者であるということ、それから戦争の時に、守りを固めて強い味方になるということを申し上げました。しかし、そこで最初に言いましたように、たくさんのことを知っていればそれでいいのか?ということを考えたいと思います。
たとえばこういうことがあるかと思います。このお寺に来るのは二度目ですけれども、この前、来た時には川口駅でちゃんと降りましたが、今日は間違えて西川口駅で降りてしまったので、ちょっと道がよく分からなかったんです。仕方なく途中で「これから毘沙門さまのお祭りがあるお寺に行きたいのですが、どう行けばいいんですか?」と誰かに聞くわけですね。そうすると、行き会った人は「こっちですよ」「あっちですよ」と教えてくれますから、私は「ああ、そうですか。これで目的地に行けます。ありがとうございます。」とお礼を言うわけですね。ですから、知識を持っている、情報を持っている人が、その情報を「はい、どうぞ。こっちへ行けば目的地に行けますよ。」と言ってくれれば、私は助かるわけです。そしてその人に「どうもありがとう」と言うことになるわけです。
ところが、たくさんの知識・情報を持っていても、もしそのように教えてくれなかったらどうなるのでしょうか。せっかく道を知っていても、「私は知りませんよ。」とか、「勝手に行けばいいでしょ。」と言われたとしたら、これはどうでしょうか?聞いた者は「地元の人だから知っているだろうに。教えてくれたっていいだろう。」「教えたくらいで、お金が減るわけでもないし。」という気持ちになっちゃうと思うんです。そうしたら、そこで“プッツン”ですね。「もうあんな人の顔も見たくない。」となるし、その時だけのことではなくて、後々まで「川口に行ったら、道も教えてもらえなかったから、あんなところへは二度と行きたくはない。」と思い込んで、どんどん印象がマイナス方向へ、マイナス方向へと広がってしまいます。ところが最初に尋ねた時に「それはこちらですよ」と教えてもらい、つまり、知識を与えてもらうと、そのことだけで「あそこの人々は親切だ、今度行き会ったらお礼を言いたいものだ」そう考えると、お互いの親密感がどんどん増していきます。これは考えれば当たり前のことですが、実はこれがなかなかできにくいことなんですね。
その2
これと同じようなことが、家庭の中で一番身近に起こるのは、お嫁さんと姑(しゅうとめ)さんの間ということなんですね。特に今日ではいろいろな問題が起こりがちなようです。昔はお姑さんが一家の先輩でしたから、若いお嫁さんは、とにかくお姑さんの言うとおりに、「こうしなさい」「ああしなさい」「こうしたほうがいいですよ」と言われたとおりにしてきたわけです。しかし、最近はなかなかそうはいきません。「親は親であっちで暮らして、私たちは私たちでこっちで暮らすわ。」「お互いに気まずい思いをするんだったら、初めから別々に暮らしたほうがいいわ。」というような考え方になってきているわけです。少しは揉まれながら、苦労しながらも、その先に身についてくるものがあるとは考えないようですね。そういう苦労を遠ざけてしまう。容易じゃないことは「嫌だからしない」という雰囲気が非常に強くなってきています。
ご承知のように、“3K”といわれていますが、「きたない仕事」「きつい仕事」「危険な仕事」は嫌だというのが、今の若者だと言われています。まあ、危険な仕事というのは、働く人も、会社でも、いろいろと考えなければなりません。しかし、働く上できつくない仕事があるでしょうか。朝のごはんをつくるのも、夕方遅くまで仕事をするのも、仕事できつくないことなんてないわけですね。本当の意味で考えれば、仕事というのはきついのが当たり前なのです。しかし、ややもすると、体力を使うのは嫌だとか、精神的に疲れるのは嫌だとか、そういう逃げの精神が、今の世の中にはびこっているようです。
ですから、私たちの今日の問題で考えますと、まず知識をどうやって生かしたらいいのかを考えることです。お金のことでいえば、お金は溜(ため)るだけではダメなんですね。その入ってきたお金をどういうふうに使うか、その使い方によって、生きたお金にもなるし、死んだお金にもなるということは、皆さんもご承知のとおりです。私たちも長い人生で、その生活の中で、いろいろと身につけてきた生活の知恵、人生の知恵をうまく周(まわ)りの人に生かしていく。周りの人の力になるように、何かひとつプレゼントしていくという心持ちや、努力が必要なのではないでしょうか。
その3
さて、一番最初のところに戻りますが、私たちは誰もが思いやりの心を持っている、尊いものを持っているわけですが、どうしてそれが「それじゃあ、あなたどうぞ」とか「じゃあ、みなさんどうぞ」と言えるようにならないんだろうかと考えてみた時に、その答えを出してくれるのが毘沙門さまのお姿だと思います。
最初に申し上げましたように、手の掌に塔、仏塔(ぶっとう)を持っている。この塔というのは、仏教、仏の智慧(ちえ)、経典のことであると申し上げました。これは、いまの私たちで言えば、生活の知恵ということになります。お姑さんはお姑さんとして、長い人生の中で築いてきたことが、それぞれにたくさんあるわけです。そうして、「私のような苦労は今度の嫁にはさせたくはない。」「私の経験した苦労は子どもにはさせたくない。孫にはさせたくない。」というのがお年寄り、あるいはお父さん、お母さんと呼ばれるようになった人の気持ちだと思います。そういう尊い思いやりの気持ちがあるわけですから、それをどのように生かすかということを考えていくことが大切だと思います。
前に申し上げましたように、仏教で戦争するといえば一体誰とするのだろうか?人間同志ではありません。自分の心の中にある、体の中にある煩悩(ぼんのう)という敵。「容易(ようい)じゃない」とか「嫌だ」とか「少しは楽をしたい」と思って怠けたり、嫌になったり、「あの人は何よ」と人を軽蔑したり、「私の方がいい暮らしをしているわ。」と驕(おご)り高ぶることもありますよね。そういう自分の中にある心の揺れ動き、それらを一言で申し上げますと煩悩ということになります。その煩悩をやっつけるために、毘沙門さまは右手に宝の棒、武器を持っている。その煩悩をやっつける中身は、私たちの築いてきた生活の知恵ということです。これは仏さまの智慧を生かしていくことを表しているのだと私は思っています。