真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

風信(かぜのたより)No.31

 信じるものは果たして救われるのでしょうか? それとも、信じていても救われないのでしょうか? そしてまた、願いは叶うのでしょうか? この問いかけは、結果が求められています。信じていれば、その結果、救われるのか。願うことは、叶うのか。「いかがか?」と問われれば、きっぱりと「救われる。」「願いは叶う。」と答えます。「それはなぜか?」と問われれば、「それが人間だから、それが信仰だから」と答えます。まことに「信じている」なら、必ず救われるでしょう。願いは叶うでしょう。
 しかし、もしも信じることに疑問を抱いたり、躊躇(ちょうちょ)すれば、救わることはありません。信じることに一心不乱となれるなら、まっすぐに突き進めるのなら、願いは必ず叶うはずです。自分の進む道に迷わなければ、ブレなければ、大願は成就します。自身の疑念を捨てて、私利私欲を拭いさえすれば、心に願うことは成すこと間違いありません。
 それ仏法はるかにあらず 心中にしてすなわち近し 真如他にあらず 身を捨てていずくにか求めん。そのように弘法大師空海も言っています。仏の教えははるか遠くにあるのではない。誰よりも近い自分の心の中にある。悟りの世界は別の場所にあるのではない。だから、この身を捨てて、どうしても必ず求めよう。そんな意味と受け止められるでしょうか。
 そして、ここで問われるのは、自分はどれだけ信じることができるかということです。迷うことなく、ブレることなく、まっすぐにどこまでも信じきることができるかどうか、それが自分自身に問われるのです。こんなにも情報があふれる時代です。楽しいもの便利で快適なもの、心惑わすものばかりが目に飛び込んできます。そんな世の中にあっても、自分が信じたら最後まで、その道を貫けるかどうか。それを成し遂げることができるなら、あなたは、きっと救われます。あなたの願いや夢は現実のものとなるでしょう。
 迷っていては何もできません。信じられなければ救われもしません。願わなければ夢は叶いません。人が夢を見るという字は「儚(はかな)い」と読みます。あきらめてしまったら、その瞬間にすべては「はかないもの」と化します。仏教は生きとし生けるもの(衆生)の可能性を、最後までトコトン突き詰める宗教です。「くじけない」「あきらめない」「投げ出さない」この3つ が仏教の基本です。救われるかどうかわからないから信じない。願いは叶わないかもしれないから願わない。自分の足で、自分の進む道を歩く。つまずいても、転んでも起き上がって前へ進もうとする。信じる心が、あなたの可能性を次から次へと拡げるのです。「もし鑁(バン=悟り)が虚言ならば、これを修して自ら知れ。ただ願はくは、一生を空(むな)しく過ごさしむるなかれ」
真言宗中興の祖・覚鑁(かくばん)上人のお言葉です。

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