真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

風信(かぜのたより)No.51

 そこにあるもの。それが目に見えて、手に触れられれば、私たちはその存在を確かめて、信じることができます。そこにあると実感できます。けれども、目に見えない、手に触れられないものが何か確かめられないと、私たちはその存在をなかなか信じることができません。そして、そのものがあるかどうか、一抹の不安を感じてしまいます。幽霊や霊魂、魂も同じです。目に見えない、手に触れられないものがあるかどうかは、科学的に証明できなければ存在しないという人も多いでしょう。さて、あなたはどうでしょうか?
 それは言いかえれば、目に見えて手に触れられれば、その存在を信じるも信じないもない。確かに存在すると思えます。しかし、目に見えなくて、手に触れられないものは存在を実感できません。だから、存在しないということになるわけです。でも……
 目に見えない、手に触れられないものでも、存在するものはあるのではないでしょうか。そう、例えば、心とか想い、やさしさや勇気、愛情、やりがい、希望、そして魂とかは目に見えないし、手に触れられないですね。人の行為や言動によって感じられること、心が受け止められることです。また、そのように感じる心は自分のどこにあって、どんなかたちなのか? でも、きっとそれはどんなに科学が進歩しても分からないでしょう。そして、信じるという言葉は、目に見える、手に触れられる存在のためのものと思えてきます。
 この「目に見えない、手に触れられないもの」の存在は、信じられるとか、信じられないという尺度、感覚で推し量るしかありません。それでも人と人は、そうした目に見えない、手に触れられないものを通して、心を通わせるのではないでしょうか。そして、こうした存在は、私たちが自分らしく生きるために恐らく最も大切なものなのです。自分らしさをいちばん実感できるのは、そうしたものを感じている時かもしれません。自分らしい希望、勇気、生きがい、それが個性となってゆくのです。
 信じる者は救われるか? この問いかけは救われるかどうかが、問われているのではありません。信じられるかどうかが問われています。目に見える、手に触れられるものの存在を信じるのは、当然ですよね。しかし、目に見えない、手に触れられないものの存在を感じて信じられるかどうか? 自分の感性を鋭く、豊かにすることが大切だと思えるかどうか? それによって、自分が信じられる心を抱けるとしたら、きっと救われるはずです。
「信は力なり」の言葉は、目に見えない、手に触れられないもの。つまり信頼とか絆とか魂を感じる感性が、自分らしさを生み出し、周りに活かされていることを気づかせてくれます。仏さまを信じ、拝んで、祈る。それをくり返すと生きる力がいつしかあふれます。この一年、信じてみませんか? 仏さまのご加護を、周りに支えられている自分を……。

 

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