真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

風信(かぜのたより)No.71

 心が潤うには、何が必要となるのでしょう? 梅雨が明けて夏の陽ざしが容赦なく照り付けると、自然と身体は発汗しますね。そうなると水分と塩分を補給しなくてはなりません。おろそかにすれば、脱水症状、熱中症となります。真夏にはそんなニュースが毎日のように耳に飛び込んできます。
 猛暑、酷暑と言われる最近の夏の季節、心も身体もカラカラに渇き切ってしまいます。自分がカラカラに渇き切っていても、そのことに自ら気づけない。すると、暑さに備えて水分補給をつい忘れて、身体も心もバランスを崩してしまう。そして同じように、この世の中も社会全体がカラカラに渇いている。思いやりや愛情という潤いを欲しているように思えるのですが……。
 

 時間に追い立てられ、同じようにくり返される毎日を、ただ漫然と過ごしてしまう。そこには、なかなか自分らしい生きがいを見出せないですよね。社会の常識や世間の目。
 目に見えるもの、手に触れられるものに価値観ばかりを求めて、流行(はや)り廃(すた)りの情報の波にあおられる。仏教では人々が生きるこの世界を、苦海を渡る………と言うことがあります。思いどおりにならないことが人間の苦だと言い切り、「諸行無常 一切皆苦(しょぎょうむじょう・いっさいかいく―目の前に起こるすべて移ろいゆく。だから、生きることは苦しみだ)」とお釈迦さまは語ります。さらに、苦は「煩悩や執着によって引き起こされる」とします。物事が煩わしく悩ましい、しかも自分の強い想いや主観にとらわれてしまう。いつまでも年を取りたくない、病気になりたくない、美しいまま、カッコいいままでいたい。でも、誰もが病いになるし老いるし、死に至ります。思いどおりにならないのに、何でも思うとおりにしたくなります。
 

 癒されたい想いは、そんな思いどおりにならない人間に、当たり前に自然とあふれてきます。あれもこれも欲しくなる。欲しがっているのに、しまうところはどこにもない。これだけ情報量の多い消費社会では、人の欲望を駆り立てるためにあらゆる手を尽くして私たちにアプローチしてきます。あなたらしさとか、その生きがいとかはお構いなしにあなたの欲望をいつでも刺激します。
 だから、自分が抱く理想とか、あなたが内に秘めた本来、持っている生きる力が、目の前に渦巻く現代社会から距離を置き、解放されたいといつも密かに願います。無駄に浪費する自分の潜在能力にもっと自分で気づいたり、実感したいと切に願うようになります。ホトケという言葉には、人の理想型とか可能性というニュアンスがあります。あなたの限りない可能性が、癒されたい思いと結びついているのです。
 

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