仏のことば
二、三帰礼文(さんき らいもん) その3
 この三宝帰依の強い思いを表明する三帰礼文を読んでみましょう。

人身(じんしん)受(う)け難(がた)し今(いま)既(すで)に受(う)く。仏法(ぶっぼう)聞(き)き難(がた)し今(いま)既(すで)に聞(き)く。比(こ)の身(み)今生(こんじょう)に度(ど)せずんば、更(さら)に何(いず)れの生(しょう)に於(お)いてか此(こ)の身(み)を度(ど)せん。大衆諸共(だいしゅうもろとも)に至心(ししん)に三宝(さんぼう)に帰依(きえ)したてまつる。

 「人身受け難し」とは、私たちがこの世に生を受けた不思議を表明しています。無数の生物が地球上に存在し、さまざまに生きています。この全生物のそれぞれの生も、とても不思議な成り立ちをしています。それなのに私たちは人間として、今ここに生きていることは不思議のきわみです。遙(はる)か昔の先祖の一人一人の生も不思議ですが、その生の一つが欠けても私の今ここでの生はないはずです。今ここに生きていることは無数の縁が不思議に結びついた結果です。自分が生まれようとして生まれたわけではないこの人生は、誕生からして大いなる不思議です。それはまさしく「人身受け難し」というほかはありません。
 しかも人間として生まれることさえ奇跡なのに、私たちは有り難(がた)くも仏の教えに出会えたのです。人間に生まれても多くの人は仏の教えに出会うことができません。私たちが仏の教えを聞くことができるのも、きわめて幸運というほかはありません。それを「仏法聞き難し今既に聞く」という喜びの表現で述べているのです。
 ですから今ここで生きている間に仏に救われなければ、一体、何度生まれ変わったら救われることができるのでしょう。このことを「この身今生に度せずんば、更にいずれの生に於いてか此の身を度せん」と述べています。今こそ仏に出会い、教えを受けとめ、輪廻の苦から逃れたいという痛切な思いが唱えられるのです。しかも自分だけが仏との出会いに満足してはなりません。信心を同じくする仲間とともに、この有り難さを受けとめたいという願いが「大衆諸共に」という言葉に凝縮しています。
「大衆」とは信心を同じくする僧伽の修行僧の仲間という意味です。しかし、そこには同じ僧伽に関わるすべての人々という意味も込められます。真言宗智山派という僧伽に関わるすべての僧侶と信者が「大衆」です。あるいは、それぞれの寺院にあっては寺院の住職や寺庭、そして檀信徒のすべての方々が「大衆」ということになります。信心を同じくする人たちが救いを求めて協力することが「大衆諸共に至心に三宝に帰依したてまつる」ということになります。
 このように三宝全体への帰依を述べた後に、三宝それぞれに対する帰依の気持ちを唱えます。この帰依の言葉も『華厳経』に説かれています。
 まず仏宝への帰依が次のように唱えられます。
つづく
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