毘沙門さまの功徳七福神信仰の広がり
その1
ところがですね。これはうまくできたお話しなんです。七福神のお話しを読んでみますと、たいていそういうふうに書いてありますが、具体的にはもっと歴史が古く、ずっとさかのぼるわけです。ただ、江戸時代に人々の間に非常に流行したということはわかるわけですけれども、そうなるまでにはまだまだ長い歴史があるわけです、何故、七福神の考え方が当時の人々に流行ったのだろうか。そう考えますといくつかの理由が浮かんできます。
その一つは戦国の世が終わったということです。今の私たちにはまったく平和な世の中になっていますから、ついこの間には湾岸戦争がありましたけれども、何か遠い国のようなことに感じております。ところが、今から三百年、四百年程前は、全国各地にお侍がいて、我こそは日本を統一して、侍の総大将になろうと戦争をしていたわけです。その最初の人が織田信長ということは、ご承知のとおりですね。ところが天下統一にもう一歩のところで、明智光秀の謀叛によって挫折してしまった。そのすぐ後に当時の木下藤吉郎、後の豊臣秀吉が日本を統一する。しかし、やがてまた豊臣秀吉が亡くなって、紆余曲折がありまして、最終的には徳川家康公が天下を統一することになります。ですから人々は長い間、戦争に明け暮れていたわけです。それがようやく徳川家が幕府をつくって、政治の中心を関西から、関東の江戸に移して来た。世の中が平和になってきて、暮らしが落ち着いてきた。じゃあ私たちも少しはリクレーションといいますか、気持ちを伸ばして、心をゆるやかに暮らしてまいりましょう。そういうふうな活気が起きてきたことが考えられます。
二つ目は、当時は江戸の町といっても、たかだか二十万か三十万人というくらいの人口で、今日から見れば笑っちゃうような小さな町です。今は一千数百万人くらいですか、そういう日本の中心、世界の中心という都市になりましたが、当時の中心は何と言っても都は京都ですから、京都の文化に比べますと、東京はこれから新しい日本の中心都市にならなければいけない。そういう気持ちが幕府の人たちにもあるし、町に住んでいる人たちにもある。それに、全国各地からいろいろな人たちが江戸にやって来るわけですね。江戸へ来て新しいことをやって行こう、自分たちの町をつくっていこうという人たちで湧きかえる、そういう動きが非常に活発になってくるわけです。
その2
それから三番目は今と同じようなことですけれども、当時の文化の中心は関西でした。それで当時は関西でどういうことが流行っていたかといいますと、例えば毘沙門さまのご信心も非常に行われていたそうです。毘沙門さまは京都の鞍馬山、鞍馬天狗で有名な鞍馬寺におまつりされていました。今日ではその鞍馬山は竹切りで有名で、いろいろな行事が行われていますが、その鞍馬山に毘沙門さまがおまつりされていました。当時の人たちはお正月、新年が明けると寅の日にその鞍馬山のお寺にお参りする。そして、毘沙門さまのお姿、今日風に言えば色紙ですね。色紙をいただいて、それを自分の家に持って帰って、「この一年がつつがないように」とお祈りする。そういうご信心が京都でおこなわれていたそうです。毘沙門さまも流行っていた。それから恵比寿さまもそうです。大阪の今宮戎とかですね。色々な福の神があちらでもこちらでもと関西の方で流行っていたわけです。
そうしますと、江戸の町に住んでいる町人たちは、新しい物好きですから、関西で流行っているのなら、うちのほうでもやらない手はない。関西でやっているなら僕らのところでもやろうよ。そうやってどんどん文化が広がっていくわけです。そして、その次に考えることは誰でも同じだと思いますが、どうせ始めるんだったらこれまでと違うこと、もっと良いことをしようじゃないか。他より負けないものを造ろうじゃないか。これが一般的な考え方だと思いますが、当時の江戸の人たちもそのように考えたと思われます。とにかく関西に負けるな、これから江戸を立派にして行くんだ。その時に神社をお参りするとか、いろいろなリクレーションを通じながら、そういう雰囲気を盛り上げていったわけです。
すると今度は、そういうお寺参り、神社参りを経済的なことで考えますと、お参りをするために人が動くわけですから、そうすると食べ物屋さんが繁盛する、履物屋さんが繁盛する、着物にもいろいろな流行がありますから、そういった衣食住すべてが変わっていくわけですね、例えばお茶屋さんができる、食堂もできてくるわけです。いろいろなところで活気が出てくるわけです。そういう人々の動きや気持ちを眺めている人もいるわけです。例えば禅宗のお坊さんは、中国の文化を非常に良く伝えて来ておりますので、その当時の布袋さまであるとか、福禄寿であるとか、寿老神であるとか、そういった中国で流行っていた様々なご利益を授けてくれる人たちの肖像、お姿を「これはなかなか良い雰囲気だから」といって絵に画いて見せる、あるいは世の中に賢い人が七人いる、「竹林の七賢人」と言われるようですけれども、そうしたことから七という数字にちなんで、福の神として恵比寿さまを入れてみようとか、弁天さまを入れてみようとか、そういうふうに、いろいろとかたちを変えながら七つの福の神を作り上げて、七福神が決まってきたようです。今日のようになるのは、ずーっと最近のことですけれども、江戸時代には七つといいましても、内容的には幾つかの変化があったようです。
その3
七福神の信仰が広がってゆくのには、戦争が終わって、人々の気持ちが生活を充実する方向にむいてきたということが一つ。それから、江戸が新しい町づくりを始め出したということ。文化が関西の方から、どんどん伝えられて来るということ、そして、人々の気持ちを平和に、円満な暮らしに、そういう流れに向かうように気持ちが大きくなってきた。
そのような状況の中で、七福神のご信仰が、江戸時代に一般的に定着したことは確かなようです。
徳川家康公が、天海僧正さんから教えてもらった七つの福の神について、「だから、君たち下々の者も、みんな七福神をご信心しなさい。」ということだったら、人々の気持ちがついていくものではないと思います。まあ、昔のことですから、殿さまが偉くて、そうじゃない人たちが偉くないというかたちはあったわけですけれども、それだけではなくて、人々の素直な日常の生活、そこから「幸せなくらしがしたい」という気持ちが広がり広がっていって、七福神のご信心というかたちにまとまってきたのだと考えていただければ、一番自然なのではないかと思われます。