真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

夏目漱石


 皆さんよくご存知、漱石の『草枕』冒頭の一節です。後日談で、漱石は「私の『草枕』は、この世間にいう小説とは全く反対の意味で書いたのである。」と語り、また「苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを仕通して、飽き飽きした。」とも話しています。
 漱石は果たして、世間に嫌気がさしたのでしょうか? 自分に愛想が尽きたのでしょうか? 人間の喜怒哀楽から逸脱した「非人情」の世界。漱石は一体、何を望み、どんな世界を求めたのでしょうか?
 しかし、求めていたことは、それほど難しいことではなく、実はごく簡単でシンプルなことのように思えます。おそらく「自然のままに生きたい」「自分をありのままにみつめたい」ということだったのではないでしょうか? ただ、これを実践するのはとても大変なことです。だから、誰もがこうしたことを考えることはあっても、結局は日常に埋没して忘れてしまう。それもまた、常のことですね。
 そこであきらめずに踏みとどまって考えてみる。何かをやってみる。あきらめることなく、『草枕』を著した漱石の思いを、もう一度、見つめなおしたい気がします。何かが変わるかも知れない。新しく始まるかも知れない。だって、ドイツの統一も、ソ連の崩壊も、冷戦の終結も、"あっ"という間の出来事でしたよね。だから本当は、私たちの周りに可能性やチャンスは、いっぱい転がっているのかも知れません。けれども、私たちはいつもそのことに気づきません。見ようとしていません。そうだとしたら、どんなに悔しいことでしょう。せわしない、住みにくいこの世の中でも、きっと、いつも可能性だけは信じていたい……そうは思いませんか?

 

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