風信(かぜのたより)No.27
良く整えられた自分とは、どんな自分か? お釈迦さまは「私の説いた教えを守り続けること」と話しています。そして、「私が死んで居なくなっても、嘆き悲しんではいけない。私の説いた教えを忠実に守りなさい。そうすれば、お前たちは大丈夫です。」と繰り返し弟子たちに諭(さと)すのです。 この遺言を仏教では自燈明・法燈明(ほうとうみょう)といいます。燈明とはローソクの炎のことですが、この場合は"支え"とか"目標"という意味です。お釈迦さまの教えを支えとし、それで自分を良く整えて、人としての道を全うする。それが自分のより所となるのです。それでは、お釈迦さまの教え、法とはいったい何でしょう? 中道(ちゅうどう)とか、四諦(したい)・八正道(はっしょうどう)とか言いますが、難しいですよね。例えば、中道は「かたよったものの見方や考え方をしない」こと。四諦は「生きることは苦しい、その苦しみは煩悩によって引き起こされる、苦しみを無くせば心は安らかになる」こと。八正道は「苦を無くすには8つの実践(修行)がある」ことです。煩悩がなぜあるかというと、私たちはすぐに物事に執着してしまうからなのです。この世にあるものはすべて移り変わってゆく、人も自然も日々移ろいゆくのに、人間は、強い思い入れ(執着)を抱くと、自分の思い通りにそのままであって欲しいと願います。それが思い通りにならないと、苦が生まれるのです。 生まれる、老いる、病む、死ぬ。これは私たち人間が思い通りにできないことです。苦の代表といえるこの4つを四苦と言います。この高齢化社会では、特に老いること、病気になることの苦は、何とも切実な問題と言えるでしょう。本人ばかりでなく、ご家族や親族にとっても切なく哀しい、言い表しがたい苦しみでしょう。それまでは健康で元気な体や感覚が衰えた時、どう老いを受け容れるか? 齢を重ねて、体のあちこちが痛んだり病気になった時、不自由な身体とどう付き合うか? そして、自らの死とどう向き合うか? さらに残された人生、いのちをどう全うするか? 誰もが必ず、ゼッタイに味わうこと。その時になってからでは、きっと、どうにもならないのです。いまから、あなた自身が支えとするものをしっかりと整えてゆく。あなたの周りに居る家族、親族、友人といっしょに、少しずつ苦に立ち向かう準備を始めましょう。苦しみは少しずつ分かち合って、その方が、周りも力が抜けて、やさしくなれるはずです。