風信(かぜのたより)No.25
こころが大切だということは誰もがわかっていることでしょう。それなのに何度も「こころが大切」と言われるのはなぜでしょう? きっと、私たちはこころをすぐに忘れてしまうから、こころを見失ってしまう習性があるからでしょうか。それとも、心が大切だといっているわりには、なぜ、こころが大切なのか、その理由をはっきりとわかっていないからなのでしょうか。私たちは、どうしても目に見えるもの、手に触れられるものに、つい目を奪われます。しかし、こころは、それでは何も満たされないとわかっています。こころが望むこと、それが、私たちが本当にいやされること。それは、目に見えないもの、手に触れられないもの。つまり、こころで感じ入るもの。愛情や情緒、やさしさ、思いやり、人の祈りや感謝の念。そういったかたちにあらわせない、なかなか言葉では説明できないものに、感極まったり、こころ揺さぶられ、自分自身を実感できるからなのでしょう。
こころが求めるものと自分が興味本位に走るもの。なぜ、そこには大きなへだたりがあるのでしょう? 思うにそれは、自分で面倒なことはしない、簡単にすまそうとする、そういった私たちの今の生活スタイルに原因があると思えてなりません。お通夜やお葬式、初七日を内々で簡単にすまそうとする。何から何まで葬儀屋さんに任せてしまう。これはひとつの例えですが、そうした簡略化が、いまの私たちの周りには多すぎるように思えるのです。お金を払って何から何まで代行してもらう。そうしたやり方のほうが、確かにスマートに感じられたりもします。けれども、果たしてそこにどれだけの「こころ」が込められるのでしょう。面倒でも、ひとつひとつを自分の手をかけて行うこと、それが、こころを込めることにつながり、その積み重ねが、心を養うことになってゆくのではないでしょうか。今のこの便利な世の中で、お金によって楽をすることも必要だと思います。でも、その中で、ある部分は、こころを込めて、相手の姿や顔を思い浮かべて、自分の手で思いを込める。想いと行為がいっしょになってはじめて、私たちの心は養われ、それが積み重なって心を豊かにするのです。
こころとは何か?そして、こころとは自分のどこにあるのでしょう? 目に見えないもの、手に触れられないものに価値を感じられるなら、その答えはおのずと見えてくると思います。一日の始まりに「今日も一日無事でありますように」と祈る。1日の終わりには「今日も1日無事でありがとう」と感謝する。誰に祈り感謝するか? もちろん、お仏壇の仏さま、ご先祖さまです。お仏壇の仏像やお位牌には、魂が込められていると信じられる。だから、手を合わせて祈り感謝する。自分の心が、自分のルーツであるご本尊さまやご先祖さまの心を感じて手を合わせる。
自分の手で心にある想いを毎日ささやかに表現する。ご供養とはこころをかたちにしてお供えする。その行為が、自身のこころを大きく豊かに育んでゆくのです。
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