風信(かぜのたより)No.17
でも、大切な人、かけがえのない人が居れば、そういう人たちへの思いが強まれば強まるほどに、そうした人間関係に亀裂が生じたり、いらだちを覚えたり、憎しみがあふれることさえあります。思い通りにならないことが増えてくる。それが人の「苦しみ」と説いたのはお釈迦さまです。 子供や親、兄弟、家族、友人を信じられる。でも、思い余っていらだちや憎しみが込み上げるとしたら、それは、信じているということにはならないでしょう。そうした感情が、自分の内に生まれるのであれば、それは、信じたつもりになっている・・・・・・と言えるかも知れません。
信じるとは、どういうことでしょう? 私たちは、相手の良し悪しで信じられるかどうかを判断してしまいますが、それだけで、信じてしまうから、自分の思惑と違ってくると、信じる気持ちがいらだちや憎しみに変わってきます。相手が信じられるかどうかより、自分が信じることができるかどうかが、ポイントなのではないでしょうか? 何があっても、信じ続けられる。そうした決意を持てるかどうか? それが、信じることなのではありませんか? 信じられる相手よりも、自分に信じる心があるかどうかが、求められるのだと思います。 人は一人では生きて行けません。それは言い古されたことですが、人とのかかわりがある以上、信じられる人は必要ですよね。でも、自分の「我」が強ければ、人を許すことはむずかしいし、受け容れることはなかなか簡単ではありません。相手を受け容れられなければ、その相手も、あなたに心を許すこともないでしょう。
あなたの宗教は何ですか?と問われた時、あなたは無宗教と答えますか? でも、あなたは本当に無宗教なのでしょうか? 宗教は、人が信じる心を育むことです。信じることがどんなに素晴らしく、自らを活き活きとさせるものかを実感させてくれる。その一方で、自分の感情のみで信じることを深めると、それが、どんなに恐ろしいことになるのかをも、教えてくれます。信じることの良さと悪さ、その両方を知らせてくれるのが、本当の宗教です。