風信(かぜのたより)No.15
他人事であれば、生まれかわりなんて信じるはずもない。けれども、自分やまわりで死に直面するような一大事が起こった時には、まったく違うことが普通に信じられるようになる。人間とは、本当に面白いものです。というより、私たち日本人には、意識の奥深くに、生まれかわりを信じるDNA(遺伝子)が受け継がれているのかもしれません。 生まれ死に、死に生まれることを輪廻(りんね)と言います。遠くインドでは、はるか昔から輪廻することは苦しみと考えて、その苦から抜け出すこと(解脱)を理想としてきました。2500年前のインドで、お釈迦さまは、この苦(思いどおりにならないこと)の原因が何によるのかを見つめ、人間のありようと宇宙の真理を見極めました。さらに、苦から解脱するための暮らし方をくわしく説かれました。
日本でも、六道輪廻(ろくどうりんね/地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の考えが広まりましたが、そんな中、死んだ後に阿弥陀さまに迎えに来てもらい、浄土へ往生したいと願ったり、観音さまやお地蔵さまに救いを求めたりするのです。そして、真言宗では、大日如来がいつも説法する曼荼羅(まんだら)世界、つまり「密厳(みつごん)浄土」へ行きたいと願います。また、日本人が好んで写経した般若心経の最後には「彼岸へ渡ろう!」とあるように、浄土や彼岸のことを、われわれのご先祖さまは、さまざまにイメージして思い描きました。 人は死ぬとどこへ行くのか?そんなことを問われても何も思いつかないのが、いまの無宗教のわれわれでしょう。「戦後の日本人は死後をイメージできない珍しい民族だ。」と指摘されているそうです。昔の古典文学、平家物語や今昔物語など、あれだけ死後の世界をイメージ豊かに描いていたのに、なぜ? と言う学者もいます。元気なうちから死後を思い描けない、死について考えられない人は、いまをいきいきと生きられないのかも知れません。
自分や周りの人が、死に直面した時に、あわてて取り乱すことがないように、誰にでも必ず訪れる死をしっかりと見つめましょう。そうすれば、いま、いのちがあることを有り難いと実感できるのではないでしょうか? 生きとし生けるもののいのちの尊厳、いのちの大切さに思い至ると、自然に感謝の気持ちが抱けるようになります。