真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

風信(かぜのたより)No.14

 光陰矢の如しと言いますね。「月日が経つのは本当に早い」という意味で使われるわけですが、昼(光)と夜(陰)が繰り返され、アッと言う間に過ぎることを表わしています。私たちの住む世界は、どこにでも、そこかしこに必ず、光と影が存在します。光が射(さ)すところに、必ず影ができる。この世界は、光だけが存在するわけでもなく、影だけが存在することもないのは、小さな子供でもわかっています。けれど、私たちは、時に、この世に、光しか存在しないと思い込んだり、目の前には暗闇(くらやみ)しか無いと絶望することもあります。人生にも、浮き沈みが必ずあるという道理をわきまえているにもかかわらず・・・・・・です。
 この現代社会で暮らしている私たちは、陰となるところは気にも留めず、暗闇に恐れや不安を感じて、ついつい明るいところばかりに気を取られ、光の射す方向へと、つい眼を向けてしまいます。
 明るければ、そこに何があり、その姿かたちが何だかわかる。実態をつかめれば、それで安心できるのです。眼に見えるものとか、手に触れられるものに価値や安心を感じられる・・・・・・それは、確かにそうですが、それじゃあ、あまりにも単純で、おもしろみのないもので飾られた世界にならないでしょうか? 白日の下に晒(さら)された、光ばかりにふちどられた世界。それは、迫力を欠き、みずみずしい躍動感が失われ、分かりきった、退屈なものとならないでしょうか? 例えば、絵画でも、光と影のコントラストが、その絵に深みとか立体感を見るものに感じさせますよね。この離れることない光と影は、人間にとって想像力を揺さぶり、心を深く豊かなものへと育んでくれます。
 仏教は暗いイメージと言われることが良くあります。でもそれは、そんなものの見方しかできないことに寂しくなります。そう感じてしまう心が切なく思えます。嫌なもの、わけのわからないものは避けてしまう。自然にそうしてしまう心には、豊かさも深みも何も感じられません。見たまま、目に映ったままを言葉にする人間は、果たして魅力的なのでしょうか? 人の「生と死の一大事」をしっかりと見つめてきた仏教は、この世の、人間の光と影の存在を、あるがままをそのままに見据えてきた教えでもあるのです。
 そこに何があるのかを自分で感じ、考え、自分の言葉で語れる人になれればいいですね。ほの暗い、何があるのかわからない影の部分に、何があるのか? 身体と心と感覚を結びつける、眼に見えないものは何なのか? 人の感情や想いは、言葉では語りつくせないから、面倒で、しんどいけれども、それがわかった時には、嬉しいし、共感を持つことができればそれが勇気百倍になる。仏の教えは、人に生きる力をあふれさせるもの、その力が何かよくわからなくても、そのパワーがものすごいことを感じ取ることができるものでもあります。

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