風信(かぜのたより)No.14
明るければ、そこに何があり、その姿かたちが何だかわかる。実態をつかめれば、それで安心できるのです。眼に見えるものとか、手に触れられるものに価値や安心を感じられる・・・・・・それは、確かにそうですが、それじゃあ、あまりにも単純で、おもしろみのないもので飾られた世界にならないでしょうか? 白日の下に晒(さら)された、光ばかりにふちどられた世界。それは、迫力を欠き、みずみずしい躍動感が失われ、分かりきった、退屈なものとならないでしょうか? 例えば、絵画でも、光と影のコントラストが、その絵に深みとか立体感を見るものに感じさせますよね。この離れることない光と影は、人間にとって想像力を揺さぶり、心を深く豊かなものへと育んでくれます。 仏教は暗いイメージと言われることが良くあります。でもそれは、そんなものの見方しかできないことに寂しくなります。そう感じてしまう心が切なく思えます。嫌なもの、わけのわからないものは避けてしまう。自然にそうしてしまう心には、豊かさも深みも何も感じられません。見たまま、目に映ったままを言葉にする人間は、果たして魅力的なのでしょうか? 人の「生と死の一大事」をしっかりと見つめてきた仏教は、この世の、人間の光と影の存在を、あるがままをそのままに見据えてきた教えでもあるのです。 そこに何があるのかを自分で感じ、考え、自分の言葉で語れる人になれればいいですね。ほの暗い、何があるのかわからない影の部分に、何があるのか? 身体と心と感覚を結びつける、眼に見えないものは何なのか? 人の感情や想いは、言葉では語りつくせないから、面倒で、しんどいけれども、それがわかった時には、嬉しいし、共感を持つことができればそれが勇気百倍になる。仏の教えは、人に生きる力をあふれさせるもの、その力が何かよくわからなくても、そのパワーがものすごいことを感じ取ることができるものでもあります。