真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

風信(かぜのたより)No.10

 人の痛みを知ることが大切だと、誰もが知っています。幼い頃にそう教えられて、今度は自分がそう教えてきた……それは当たり前のこと。でも、人の痛みを知ることがどんなにむずかしいことも、誰もが知っています。人とのかかわりの中でしか、生きられない私たちは、他人への思いやりや気づかいを重ねて、何とか生きてゆくことができるのです。しかし、その一方で、人の気持ちを本当に理解することなんてできない、そんなことは偽善だと思い込んでいるところもあるような気がします。人と人が生きてゆくための智恵、同じように、人と自然、生きとし生けるものが共存していく智恵も、とても大切なテーマであることは、今も昔も変わらないでしょう。“自然との共生"と言うはやすく行なうはがたし……社会とは人との交わりであり、自然とはいのちが等しく同じであること。それは分かっているけれど、うまく共生してゆくことは、なかなかむずかしいという想いがついて回ります。
 社会が起こすこと、それは、私たち人間の起こすことです。社会で起こるさまざまな事件や問題は、人間の良し悪しの縮図とも言えるでしょう。どんな悲惨な事件も、何とも痛ましい事故も、自分と同じ、人間が生み出すことに他なりません。しかし、そういう事件や問題をニュースとして見たり聴いたりしている時、私たちは好奇心旺盛な野次馬となり、他人事のように対岸の火事を眺めているばかりです。でも……こういう時にこそ、他人の痛みを知ろうという気持ちが生まれなければならないでしょう。
 その事件の被害者の人たちへの心配りとともに、自らも一つ間違えば、加害者の立場になるかも知れないという思いを、何とか抱けないでしょうか? 一歩間違えば、自分でもオウム真理教に入信したかも知れない。例えば、神戸の小学生連続殺人事件の少年の親と同じ立場になったかも知れない。自分にも、罪を犯す人たちと同じような弱さや性質、危うさがあるのでは……と
 共感する、共生するとは、そういうことではないでしょうか? 誰もが理想的な生き方とか、自分らしい個性を身に付けたいと思います。でも、それはとてもできないという「あきらめ」を抱いてはいませんか? その意欲が時と共に色あせてしまう。くじけて開き直ってしまう。でも、あきらめるのはまだ早いですよ。いくつになっても痛みを分かち合う、苦楽を共にすることはできるはずです。ひとつひとつ、身近なところから積み重ねればいいわけです。
 皆さんがご法事やお仏壇で読む勤行聖典(智山勤行式)の最後には「願わくはこの功徳を以って、普く一切に及ぼし、我らと衆生(生きとし生けるもの)とみな共に、仏道を成ぜんことを。」と書いてあります。はじめの一歩、勤行聖典を読んでみる。お仏壇の前で、ご本尊さまやご先祖さまの前でお唱えする。それが身体に染み付いてくる時、生きとし生けるものと共生できるようになるはずです。

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