真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

風信(かぜのたより)No.6

 はじめの一口を「おいしい!」と感じることがありますね。お腹がすいている時はよけいにそう思うでしょう。でも、その感覚が、いつも、だんだん薄れてきちゃいます。もちろん、それは、あたたかいものなら冷めてくる、お腹もふくらんでくることもあるでしょうが、いちばんの理由は、感覚が慣れてきてしまうのでしょう。私たちの感覚は、刻々と移り変わってゆきます。よく「五感をとぎ澄ます。」と言いますが、私たちの感覚は「みる」「きく」「かぐ」「あじわう」「さわる」の5つに分けられています。
 あたりまえにあるものが、自分のまわりにいっぱいありますよね。三度の食事、睡眠、健康、それと親兄弟や夫婦、知人、さらには、空気、水、自然、豊かさ、いのち、などなど。でも、そんなあたりまえのものが、いつの間にか、気づかぬうちに、1つなくし、また1つうしない、最後には、自分の余生、いのちさえも消え去ってゆきます。なくして、はじめて、その大切さ、存在の大きさを、嫌と言うほど味わうことになります。いのちあるうちに、元気なうちに、そうしたあたりまえにあるかけがえのないものをいつくしみ、いとおしむ感覚を持つことはできないものでしょうか?

 なれしたしんだ感覚を、いつも、普段から鋭くできれば、モノの見方や考え方も少し変わってくるのでしょうか? 自分のいのち、生きている実感も抱けるのでしょうか? 一口のゴハン、いっぱいの水、自然の恵みのありがたさ、まわりの人たちへのいたわり、そういう感覚・感情が芽生えてきたらいいなと思いませんか。仏教では人間の感覚を「六識(六根)」と言い表します。眼・耳・鼻・舌・身・意と6つに分けます。最後の「意」は、思考・心を意味します。
 山伏や巡礼者は「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と繰り返し唱えながら山中や路を歩きまわります。つまり、自分の感覚器官を研ぎ澄まそうとしているわけです。
 いつもなら見過ごしてしまう、ささいなものへのいたわり。知らぬ間に失ってしまう大切なものへの思い。悔やんでも悔やみきれないかけがえのないものを、あなたは、今この瞬間に、その手からこぼしているかも知れません。あなたの目に映っていても、そのモノの価値が、心に、感覚に、本当に刻みつけられていますか?

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