真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

風信(かぜのたより)No.1

 心を込める、心が通う。こういう時の「こころ」って、実際には何のことなのでしょう? その一方で、心ここにあらず、心ない「言葉」や「行い」という場合は、人間らしくない、血の通わない人のことを指すことがあります。でも、実際には、生きているのに血の通わない人はいないわけですから、心というのは人間らしさとか、ぬくもりを感じさせる言葉ということになるのでしょう。

 かたちのない「心」は、見ることも触れることもできません。でも、私たちが生きてゆく上で、心は何よりも意識するもののひとつでしょう。それでも、私たちの日常では、心を込めた言葉やおこないは、見失われがち、忘れられがちではないでしょうか? 振り返ってみれば、心無い、かたちばかりのおつきあいや生活習慣が何と多いことかと嫌気がさすことはありませんか? お歳暮やお中元の多くや、バレンタインデーの義理チョコなんて最たるものかも知れません。
 いつもそうして心無い時間を過ごしていると、いざ!という時に心が相手に伝わらないことはないでしょうか? 時間に追い立てられて、心ここにあらずという暮らしの中では、心はなかなか養われません。心は豊かになりません。あなたが癒されていないと感じているなら、それは、こころ無い時間をいたずらに浪費しているからなのかも知れませんね。では、心はどこにあるのでしょう? どうすれば心を込めた行動、行為となるのでしょう?

 願いが叶うように祈る、亡き人の冥福を祈る。こうした時は一生懸命に祈りますよね。でも、「苦しい時の○○頼み」だけじゃあ、やはり、なかなか願いごとは叶いません。いつも何かに祈っている。いつも何かを祈っている。そして、願いが叶ったら、それからずっと感謝してくり返し祈る。祈る行為を習慣にしておかないと、心がけていないと、感受性や人間性は豊かにならないでしょう。都合の良い時だけ、おいしいところばかりを食べていては、心は大切なものを失い、いたずらに傷つくばかりです。祈りと感謝の気持ちが、心をあたため、血を通わし、自分らしさを培ってゆくのです。

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