真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

芭蕉


 漂白した経験のない者にとって、この世から離れ、親しい人との交わりを絶つことがどういうことなのか、はかり知れません。恵まれた便利な生活に浸りきった私たちが、時々、「いまの暮らしから逃れたい」と思いつくことはあっても、現実を変えて、生きる勇気を持って、ひとり孤独に生き抜くことは、とてもとてもむずかしいことです。
 誰もが、幼く、何もわからない頃に、素直に抱いていた夢は、時の流れとともに、いつか忘れ去られる運命にあるのでしょうか? それはおそらく、目に映るものだけに価値を求めるようになる時には、私たちは「夢見る頃」という、活き活きと生きるための大切な時間を「忘れてしまう」ことで、置き去りにしているのかも知しれません。
 夢見るころを過ぎて、愛しさ、切なさ、悲しさ、苦しさをいくつ噛みしめても、夢が叶うことを願い、素直な気持ちで祈ることができるなら、私たちは、いつも、力強く生きられるはずです。「明確な意思を込めた行為の積み重ねが奇跡をもたらす」という格言は、夢も奇跡も、ラッキーな偶然の産物ではなく、「夢が現実のものとなる」と固く信じる心によって生まれるものではないでしょうか。
 死という現実を目(ま)の当たりにして、それでも、夢を現実のものとして思い描ける芭蕉には、死に対する不安は、みじんも感じられません。

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