風信(かぜのたより)No.43
20年・30年前なら「親父の葬式はきちんと立派に家から送り出す。」と言うのが当たり前だったでしょう。そして今では、住み慣れたわが家から出棺する光景なんて目にすることもありません。自宅で家族に看取られながら死を迎える場面もTVドラマではもうお目にかかれません。

心が何を想っているか、自分自身でもわからないことは良くありますよね。家族を想うがゆえに「心に思っていること」を口にできない。でも本当に家族同士の想いがあれば「家族に迷惑をかけたくない。」と言われても「家族なんだから迷惑をかけるのは当たり前でしょ。」と心の奥に秘めた想いをくみ取ること、それが本当に家族を気遣うことなのではありませんか? 「迷惑をかけるから……」の言葉に「そう言ってくれるなら……」とそのまま鵜呑みにしてしまえば、それは親の心に気づけないまま終わってしまうことになるわけです。
人が心の奥底で想うこと、本当に願うことをそのまま口にできない家族関係。それだけに留まらず、この社会は人が想うこと、本音を口にできない、「傷つけたくない症候群」が蔓延している気がします。

「こころ」とは何なのでしょう?私たちは自分の心が何を望み、本当にしたいことを感じ取っているのでしょうか?何でもかんでもコントロールされ、管理されたこの社会に居ると、情報が入り乱れるこの世の中は、どんどん無機質になってしまい、居るだけで自分を見失い、自分らしさを喪失するようになってゆく気がします。だから想っていることがなかなか口にできなくなる。優しい言葉をかけられるとホッとして、その言葉に飛びついてしまうのではないでしょうか?
仏教は人の心をどこまでも徹底的に見つめる宗教です。自らの心のありよう、内面を探るのが仏教です。なぜ心は欲を抱くのか?人やモノに執着するのか?どうして苦しんだり悩んだりするのか、それを解き明かすことに目を向けてきました。同時にそれは、人には限りない可能性が秘められていることを見つけ出すことにもつながりました。あなたの心が何を想うのか?木当にしたいことは何か?いま、少しばかり立ち止まって、自身を見つめてみませんか?