真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

風信(かぜのたより)No.48

 背中で教えると言いますね。親が子に、上司が部下に口であれこれ言うより黙ってやって見せる。そうして成し遂げる様子を目の当たりにすることで、やり方を学んで身に着ける。教える方はまず黙ってやって見せる。教えられる方は親や先輩が取り組む後姿を見て、ノウハウや技術や心意気を学んでゆく。でも、最近は教わる側が「口で丁寧に言ってくれないと分かんない」とか「友達感覚で接してくれないと萎縮しちゃう」なんてセリフが飛び出して……親と子、先輩と後輩、上司と部下、人間関係はいつの時代も大きな悩みであることに変わりはありません。
自分と同じようにいかないことは当然で、子供や後輩との関係がギクシャクするのは誰もが経験するものです。でも、いつの時代も、人間関係に断絶状態は付き物ではないでしょうか? 立場の違いや世代間のギャップ……そうした価値観やモノの見方の違いは簡単に埋まりません。自分の未熟な頃を省みて、自らの若さゆえの至らなさに気づく時、ギャップは絆や信頼関係へと一転するものです。
 すべて任せるのは、ホントに難しいですよね。それが子供でも、部下でも、何もかも委ねてみる。まず、そうした腹を決めるのも大変でしょうし、任せきることもどれほどしんどいか計りかねます。表向きは任せて安心した様子で居ても、内心は居ても立っても居られないことは、想像に難くありません。「失敗しないかな?」「最後までやり切れるかな?」次から次へと心配ばかりがあふれます。任せて送り出してみたものの、信じたい、でも信じきれない自分に情けなくなったりもします。
 もちろん、初めの内は失敗もあるでしょう。これまで築いてきたものを崩してしまうこともあるかもしれません。そんなふうに壁にぶつかって嘆いたり、愚痴ったりもするでしょう。でも、失敗しても培われる信頼というのも、ちょっと目には分からなくても、育まれることがあるかも知れません。自分もそうだったように、かたちは違っても、その歩みは同じ方向に進んでいるのではありませんか。
 どこまでも見守るというのは大変です。しんどかったり、忍耐を強いられることのくり返しかも知れません。でも黙して見守り続けているその視線を、そそがれている側は、無意識に感じているものでしょう。それは時にプレッシャーとなって彼は押しつぶされそうになるかも知れません。でも、任せると決めた以上は、彼が失敗することも織りこみ済みと心を大らかに保てたらいいですよね。
「仏」とは“可能性”という意味を含みます。誰にも可能性は秘められています。その可能性は発揮できる場所がなければ眠ったまま終わってしまいます。仏のまなざしが感じられれば頑張れる、それを支えに多くの人が可能性を拡げてきました。自分の内に生きる力を育んできたのです。あなたの周りにもきっと、可能性を見つけられずにいる人が、今もいるはずです。
 

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