風信(かぜのたより)No.55
亡くなった人のことまで気が回らない、生きるだけで精いっぱい。お墓を守る、お参りすることもむずかしい。そんなこの世の現実は、癒されない、心のより所を失った社会でもあります。食べるだけで精いっぱい。仕事に追い立てられる毎日に汲々としている。情報が氾濫して何も心に残らずに、うわべの言葉のやり取りだけで毎日がくり返されるこの社会では、目に見えて、手に触れられるものさえも記憶から失われてしまいます。何とも切なく物悲しい現実に立ち尽くすしかありません。 心に感じて留まるものが今、一体いくつありますか? 心が揺さぶられたり、体に響いたり感極まったことが、この数か月にどれだけありましたか? そんな経験を積み重ねて、体感したことが多く自身に蓄積されなければ、感性を鋭くして心を豊かにしてゆくことはなかなかむずかしそうですよね。癒されない自分を無理に支えながら消耗して朽ち果ててしまう。この情報化社会は消費社会であり、今や無縁社会とまで言われるようになっています。人の力や才能を消耗させてしまう世の中で、自分らしく生きるとか、生きがいを持つことは至難の業なのかも知れません。目に見える手に触れられるものさえ記憶に残らないのは、その経験に心が伴わないからでしょう。
今の自分に必要かどうか。損か得か。為になるかならないか。そうした目に見える価値観ばかりが先走ると、自分が本当に大切なものが何か?という価値観はいつか忘れ去られてしまいます。価値観は多様化していない、選択肢が増大して価値観は薄っぺらになってしまったのがこの現代社会でしょう。 目に見えないものや手に触れられないものの存在を感じられる。それは心が豊かで、感性が鋭くみずみずしいから。そうした心や感性であれば、人は自分らしさを実感していきいきと暮らせる気がします。それが、いま生きている自分が何によって支えられているのか? いのちの尊さや生と死の一大事を切実に感じられる。だから、いのちや絆を実感できることにつながるのだと思うのです。
今の自分を振り返って……支えとなってくれた目に見えない存在に感謝する。その極めつけが両親や祖父母、そのはるか先のご先祖さま。自らのルーツに思いをはせて供養を巡らせる。そんな大いなる視野を持っている教えが仏教です。自分の周りに目を向け、めぐり巡った感謝の想いを祈りに込める。回向はそうした目に見えないけど、心からの感謝と祈りによって成り立っているのです。