真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

風信(かぜのたより)No.58

 この川を渡ると向こう岸には、ずっとお世話になって自分を支えてくれた人がいます。1年に何回かはその人への感謝の気持ちをあらわして、再会してひと時を一緒に過ごします。この川はずーっと昔から三途(さんず)の川と人は呼びました。川を隔てた向こう岸を彼岸、今は亡き人が安住する場所です。こちら岸は此岸(しがん)、今いのちある人が暮らす土地です。数百年も前にはこちら岸は穢土(えど)、つまりケガレた土地。向こう岸は浄土、浄化された土地と呼ばれました。かつて穢土には俗にまみれた人が生き、浄土には仏に成った人、聖人が安楽に生きていると考えられていました。
だから今いのちある人たちは「厭離穢土 欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」を求めるのが常でした。「いま、この穢れた場所で暮らしても苦しみばかりが募ってゆく、だから仏さまに導かれて浄土で心安らかに暮らしたい。」それほど生きることは苦しい時代だったのでしょうか?
 この現代社会でも苦しいことは多いように感じます。人の苦しみはいつの時代も変わることはありません。これだけモノが豊かになって、情報があふれても心が安らかでいる時間は限られています。何かに追い立てられ、情報の波に飲み込まれ、自分らしさを実感できない。いつの時代もこの世は穢れた土地なのでしょうか? この世には居たくない、あの世へ渡りたい。自殺する日本人の数は、毎年2万人に達するほど、この社会は病んでいるのでしょう。この世のことで頭が一杯になって逃げ場を失うと、生きていても仕方がない、楽になりたいと思ってしまう。そして、残された人は「なぜ気づけなかったのか?」と後悔の念に押しつぶされます。でもあの世もこの世もお彼岸やお盆にはつながります。春秋のお彼岸の一週間は亡き人と交流する期間。お盆は亡き人が生前に過ごした場所へ里帰りして、いのちある人からおもてなしを受ける期間です。そして、お仏壇は亡き人と毎日交流できる媒体です。
 魂を感じることができる。それが日本人の昔からの感性です。家族が亡くなったら菩提寺の住職に引導を渡されて、迷わず成仏して仏の世界、彼岸へ往く。お盆には亡き魂を提灯の灯に見立てて迎え火。ひと時を過ごし、送り火を灯して帰ってもらう。四季にあふれる日本に暮らす私たちは、見えないもの手に触れられないものを感じて、その存在に畏敬の念を抱いて大切にする。それが日々の暮らしの無事につながると信じ、生きること、生活を豊かにすると実感してきたのです。この世とあの世のことは同じ時間軸にあるという感覚を常に持ち合わせていたのでしょう。
そして、真言宗は仏さまの世界である密厳(みつごん)浄土がこの世にあると説きます。煩悩や執着にまみれた目で見れば、この世の中は苦しみに満ちている。しかし、仏(大日如来)の慧眼から見ればこの世は苦しみではなく、安楽の世界が拡がっている。だってお寺の前に立って本堂を眺める景色と、お寺の行事に訪れて、本堂からご本尊さまの目線で周囲を見渡した風景は一変するのですよ。
 

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