真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

風信(かぜのたより)No.59

 運命って信じますか? 運命とか、おみちびき、おはからいとか。人の考えや意思の及ばないところで、その人の先のこと、未来が何か決められている感じがする。それがカミ・ホトケといった聖なるものによって誘(いざな)われる。そんな人の想いが及ばないことを「魔訶不思議」とか「不可思議」と言います。人は思いどおりに生きられない。そんな苦しみやいらだちを運命と言って少し和らげようとする。そんなことが無意識にはたらいているのかも知れません。
それは決して、目の前にある事実から逃げたり避けたりするものでなく、先人の知恵。そして自分の力ではどうにもならないものが必ずある、その現実を受け容れるための方便と考えることもできるでしょうか。自分は何でもできる、不可能なことはない、自分の思うようになる。そんな人の傲慢で、自分勝手な思い違いを断とうとする戒めとも考えられます。
 生きていてもしょうがない。こんな悲惨な目に遭ったから死にたい。人は悪い方に考え始めるとキリがありません。その一方で、自分に都合よく考え、時に自分が良ければそれで良いって思い上がることもあるでしょう。そんな極端に自身の考えが大きく振れ、心が揺れる。そうした私たちの歩む先、暗い道に光を当て、心もとない進路の道しるべになる存在が必要となるのです。毎日の暮らしを積み重ねる中で、自分を戒める何かが欲しくなります。その存在がカミ・ホトケなのでしょう。
仏さまに祈る時、皆さんは何を祈るのでしょう? この一年の望みや願いが叶うように、家族が、皆が無事でありますように……。信じていればきっと救われます。信じなければ救われません。でも信じていても救われないのか? そんな思いに揺れることもあるでしょう。信じる心、つまり信心があれば揺れることも少なくなってゆくのです。
 毎日が無事であることが当たり前と思うなら、そこに信心はありません。今の自分と家族、それを支えてくれるものの無事を、仏さまが守ってくれるからと思えれば、何かホッとして心が安らかになります。自らに辛いことや苦しみが押し寄せた時に、これも仏さまが与えてくれた試練だと思えば受け容れられる。この世の中には、人知の及ばない出来事や畏怖(いふ)がいっぱいです。自然が引き起こす災害も、自らにもたらされる悲惨な出来事も。そして思いもかけない幸せや、人の救いの手も……。
これからこの身に訪れる善いことも悪いことも、それはすべて仏さまのおはからい。仏さまに出会い、祈りをくり返せば、信心によって心は養われ、仏さまのご加護がきっとこの身に及びます。信じて裏切られることもある。でもそれは、次に信じることへの糧となるはずです。どんなことがあろうとそれを乗り越えられる勇気と希望をこの内に育みます。自分はたった一人じゃない、誰かに見守られている。善いことも悪いことも受け容れられる。それが生きる力となるのです。
 

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