真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

風信(かぜのたより)No.60

 情報が溢れる社会は、私たちの暮らしを便利にしてくれました。ちょっとしたことでも、何かわからないことがあれば、スマホやパソコンからインターネットで何でも調べられるし、その情報がどんな遠いところ、地球の裏側にあるものでも、手の平のデイスプレイに映像となって知ることができます。便利で快適な暮らし、しかし、それだけで幸せかどうか、それは別の話でしょう。
 情報化社会は、価値観を多様化したと言われていますが、果たして本当にそうでしょうか? ただ単に情報が余りに多くなり過ぎて、選択肢はものすごく増えても、その情報をひとつひとつ吟味していられない。さらにどれを選択していいかわからない。情報の波に呑まれ、情報に踊らされて、自分を見失ってしまう。そんな社会となっているのかも知れません。いっぱいの情報が目の前を瞬く間に流れてゆく……まさに夢幻(ゆめまぼろし)を目にしているように、です。そんな情報化社会で、自分を見失わずに、自分らしく暮らすのはとても難しい気がします。
 ひとつひとつをしっかり見つめて、手に取ってその特徴を見出す。それができないから現代人は癒されない、精神的に追い込まれてしまうのでしょうか? 見たり触れたりして、その特徴を探し出してそのモノの本質を感じ取る。他人を見た目で決めつけず、相手の想いを受け止める。目に見える、手に触れるものばかりを気にするのではなく、目に見えない手に触れられないものを感じようとする。そうしないと人の性質はやわらかくならないし、感性は鋭くならない、心は豊かにならないでしょう? 
 夢や希望、勇気やこだわり、思いやりや優しさ、愛情も縁も絆も目には見えません。そして、そういうものは毎日のくり返しの中で積み重ねられ、養われるものではないでしょうか? どんなに情報があふれ、忙しくて時間に追われても、ひとつひとつに丁寧に接して、心して向き合わないと自分らしい実感はなかなか抱けません。
 丁寧に尽くす。そうしようと思っても、この情報化社会では私たちの好奇心は必要以上に刺激され、流行り廃りに流されます。うわべだけ、かたちばかりの生活がくり返され、悩みは深まるばかりです。でも、自分らしくありたいと思うなら、生きがいを感じたいと願うなら、物事のひとつひとつに丁寧に向き合うことが大切です。モノの本質を感じるには、一つの事を集中してやり尽くすことです。
 仏教は「あきらめない」「投げ出さない」「逃げ出さない」教えです。人の可能性を徹底的に信じます。情報をちょっと聞きかじって、すぐ次の流行りに走らない。心に残るもの、深くに根差すものを感じて見つけ出して、丁寧にやり切るのが仏教の基本的なスタンスです。毎日何か一つだけフォーカスして、心を込めて、丁寧に向き合って取り組む。それがあいさつでも、通勤や通学に景色を眺めるのでも、家族や友人にひと言添えるのでもいい。あなたのささやかな丁寧な行いを心がけてみませんか。
 

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