風信(かぜのたより)No.66
そして、この心はあふれる情報の中で、本来のあるべき姿とか、物事の本質をどこまで見極められるのでしょう? 心を込める、心を豊かにする、心と心をつなぐ。そんな目に見えない、手に触れられないものを大切にしようとしても、情報の波に次々と呑み込まれてしまいます。相手の心が響く、感じる、その想いに応える。人の最も大切な感性が失われてゆく。この波に抗うのはとても難しいようです。 儀礼や形式や習慣にとらわれず、もっと自由に、堅苦しく考えない。うーん、確かにその発想は気楽ですよね。かしこまると言いたいことも言えない。中身があればカタチは気にしなくていい。そんなことから形式が簡略化され、コンパクトにする。短い時間、時短にしてカタチばかりで済ませてしまう。でも儀礼や形式は時間ばかりかかって、あまり意味のない事なのでしょうか?
儀礼や形式や習慣は、そこに暮らす人々が長きにわたって積み重ねて、築いてきたものが凝縮されています。ちょっと見ただけでは無駄で合理的ではない気がするかも知れません。でも、そのカタチには深い意味や人々の強い想いが込められています。それを知ろうともせず、退屈とか無駄だと切り捨ててしまうなら、それを守り伝えてきた人たちの心や想いを踏みにじることにならないでしょうか。人の深い想いをないがしろにしてしまう簡略化は、ご縁や絆を断ち切ることにつながります。人々の切実な祈りや願い、そして、大切な人の心と心をゆっくり感じ合うこと。それが人の生きがいをもたらすのに……。 祈る心と感謝の念が心を豊かにします。仏事は心を養う最も確かなものです。「すべての命が無事ありますように……」「無事でありがとう……」この想いは人が自分らしく生きるための根源的な行為です。今こうして自分が生きているのは亡き人のお陰だから……。その想いがあるから亡き人のご冥福を祈り、亡き人は仏と成って自分たちを守ってくれる。だから亡き人の法事を懇ろに行い、ご供養します。お盆やお彼岸にはお墓参りを欠かさない。感謝の念があれば、それはカタチ、行為に必ず現れるものです。
忙しいとか、遠方だからとか。もちろん、この現代社会では他に意識が向いてしまうことも多々あります。でも一年に数回は、自分を育んでくれた故人を想い、それをかたちにする。思っているだけでは心は養われません。思うことを丁寧な行為で顕わにする。心に思うことと、身体の行いが一致してこそ、あなたの精神はのびのびとゆったりできて、生きる力があふれるのです。