真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

風信(かぜのたより)No.73

 願いが叶うように祈ると本当に願いは叶うのでしょうか?
 このお正月も多くの神社仏閣の前で手を合わせ「この一年が無事ありますように……」「親が……、子が……元気でありますように……」とか、「受験、就職が合格しますように……」「事業、商売が上手くいきますように……」などと色々な願い事を祈った方も多いでしょう。「苦しい時の神頼み!」なんて言いますが、人の求めるもの願うものは限りなく、欲望や執着ははかり知れません。
 苦しい時だけ神社や寺院にお参りして、願い事が叶うように祈る。「苦しい時の神頼み」は私たちの調子の良さが端的に言い表されていますね。いつもはお参りなんかしないのに、窮地に追い込まれた時だけ願い事が叶いますように!つまりそれは日々の努力や積み重ねを省いて、自分の都合だけを通そうとする、人の浅ましさを言い当てているのかも知れません。

 いつもは何とでもなると過信しているのが私たちの常でもあります。当たり前にあるもの……それは家族とか、大切な友人や、さらには空気とか自然とか……。当たり前にあるもの、有ることが難しいものに感謝するから「ありがたい」つまり「ありがとう」という感謝の言葉となるのです。自分だけでは生きてゆけない、だから自分を支えてくれるものすべてに感謝して祈る。そんなふうに日本人は昔から「無事でいられますように」「無事でありがとう」とカミホトケに祈りを捧げてきました。そして、お家のお仏壇でも毎日手を合わせて祈ってきました。
 こんなにも情報とモノにあふれた社会で、私たちは欲しいものに満たされています。でも、もっと欲しがってしまう。欲と執着は尽きません。「小欲知足(しょうよくちそく)」は人の尽きない欲望を戒めています。「やめられないとまらない」は「わかっちゃいるけど……」なのです。
 
 
 救われたい想いが、救いの手を見つける。
そうは言っても、カミホトケを信じていつも祈っていないと、なかなか願いは叶いません。つまり、努力や精進なく願いは成就されない、叶わないでしょう!仏さまの救いの手は、いつもあなたのそばに差し伸べられています。それに気づけるか、気づけないかはあなた次第です。仏さまのご加護、つまり救いの手が差し伸べられていると信じられなければ、それまで。救われることはないでしょう。
 自分だけではどうにもならない、だから仏さまの力を信じていつも祈りをくり返す。そうすると、いつの間にか仏さまに守られ、救いの手がいつもあることを感じられる。守られ支えられ、必ず救われると思えたなら、自然と安らかな心を抱くことになるのです。
 

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