真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

仏のことばを読む四. 発菩提心 三昧耶戒の真言   その2

発菩提心真言
まず「菩提心」とは何でしょうか。普通には「菩提に向かう心」と理解されています。「菩提」とは悟りの智慧のことです。釈尊も菩提樹下での瞑想の中で、菩提を得たので仏になったと考えられています。その菩提に向かう心を自分の中に起こすことを「発菩提心」といい、これを短く「発心(ほっしん)」ともいいます。
 他方、「菩提心」を「菩提に向かう心」とのみ考えず、「菩提という心」と理解するのが真言密教の立場です。すなわち「発菩提心(ほつぼだいしん)」とは「自分の心の中に備わっている悟りの心を起こす」 と考えるのです。
 「悟りの心が」自分の中に備わっている、というのは仏が自分の心にいるということになるので奇妙だと思うかもしれません。ところが、そこにこそ真言密教の核心があるのです。
 弘法大師によれば、私たちは誰もが仏の心を抱いているのです。いや、正確にいうと、私たちの身体活動【身業(しんごう)】・言語活動【語業(ごごう)】・精神活動【意業(いごう)】はすべて仏と同じなのです。しかし、私たちは煩悩に心を汚され、真実を見抜けないので、自らが仏と同じであることが隠されています。自らが仏であると気づくのが悟りです。そのこ
とを弘法大師は「悟れるものを大覚(だいかく)【仏】と号し、迷えるものを衆生と名づく」【『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』】と述べています。
 このように考えると、菩提という心【仏陀】は自分の中にあることになります。それゆえ「発菩提心」とは自らに菩提を見いだすことなります。ここでいう「菩提という心」とは『大日経』で「如実知自心(にょじつちじしん)」と説かれています。これはありのまま【如実】に自分の本当の心を知るということです。まさしく真言密教の教えは「ありのままの自分の心を知る」ということなのです。それゆえ真言密教の教えに則って自分の心を見つめようとすることが発菩提心」 ということになります。
 また弘法大師は『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』 の中で「近くて見がたきはわが心」と述べています。実際に、私たちは自分の心について本当は少しも分かっていないといえるでしょう。その「見がたきわが心」 を知ることは人生の一大事であり、それをしっかりと見きわめる決意をすることが真言宗
の信者にとって、とても大切なことといえるでしょう。まさしく発菩提心の真言はその気持ちを確立する働きをするのです。この真言を唱えれば、必ずや仏の救いの働きが私たちに向けられることでしょう。

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