仏のことばを読む五. 開経文 その1
発菩提心、三昧耶戒の真言を唱えて真言密教の信心をしっかりと仏の前で表明したら、次に読経を始めます。読経によって仏との出会いをさらに確実にします。その読経の前に開経文を唱えます。
無上甚深微妙(むじょうじんじんみみょう)の法は、百千万劫(ひゃくせんまんごう)にも遭(あ)い遇(お)うこと難(かた)し。われ今、見聞(けんも)し受持(じゅじ)することを得たり。願わくは如来の真実義(しんじつぎ)を解(げ)せんことを。
【この上なく、限りなく深く、しかも言葉に言い表すこともできないほど繊細である仏の教えは、百千万劫という無限の時間をかけても出会うことは難しいのです。それなのに、今私はその教えに出会い、それを眼にし、聞くことができ、しかもそれを受け止めることができます。願わくは、どうか仏〈如来〉が教え示されようとした真実の意味を体得できますように。】
この開経文は読経の前にお唱えし、読経の心構えをしつかりとさせます。
冒頭「無上甚深微妙」というのは仏の教えを形容する言葉で、多くの経典に示されています。「無上」は「この上ない」という意味で、仏の教えが最上であることを示します。次の「甚深」は仏の限りなく深い体験の境地を意味し、その体験から発せられた仏の説法の意味も限りなく深いものがあることを示しています。次の「微妙」は「いわく言いがたい」といった感じで「言葉には言い表せない」ことです。このような意味を含み持つ「無上甚深微妙」であるのが仏の教え〈法〉なのです。
釈尊の事跡を伝えるある経典によると、釈尊は菩提樹下で瞑想し、深い仏の境地を体験されました。そして、その体験を数週間にわたって見つめ直し、獲得した境地を充分に味わい尽くしました。そして、優れた仏の能力でこの世界を見渡し、煩悩の泥海に溺れ、悩み苦しむ衆生を眺めました。そのような衆生にこの深い体験の境地を教え、救いたいと思いましたが、悟りの境地は「無上甚深微妙」なので、それを言葉では言い尽くせないと思い、説法をすることをあきらめました。すると天上からインド宗教の最高神であるブラフマン【梵天】が多くの神々を引き連れ、釈尊のところに降り立ち、説法をすればそれを受けとめ救われる者もいるはずだから是非とも教えを説いてもらいたいと懇願しました。釈尊は断りましたが、何度も懇願するので遂に意を決して釈尊は説法のために旅立ちました。それから四十五年の長きにわたって、釈尊は各地をめぐって教えを説き、多くの衆生を安楽な生活へと導きました。
この逸話が教えることは大変に意義深いものです。まず言葉には言い表せない体験をしたという実感があります。確かに私たちのささやかな体験においてさえも深い感動は言葉では言い尽くせないものです。しかし、素晴らしい体験であればあるほど、その体験の境地を他の人たちにも知ってもらい、味わって貰いたいものです。芸術家が表現をするのも、そのような思いがあるからでしょう。