仏のことばを読む五. 開経文 その2
このように人は何かを伝えようとします。そこには喜びを他人と分かち合いたい、他人の苦しみを自分なりに受けとめたいという思いが誰の心の奥底にもあるからでしょう。
釈尊はその思いの根源にまで立ち返っていたのでしょう。衆生の苦しみを目の当たりにして、自分の素晴らしい体験の境地を伝えようとするのは、衆生を苦しみの中から引き上げたいという思いであったはずです。その思いを慈悲といいます。
慈悲は「抜苦与楽(ばっくよらく)」と言い換えられます。慈とは喜びを共にしようとする思いで、それを
「与楽」といいます。悲とはつらい立場に共感し、苦しみを取り除こうとする思いで「抜苦」といいます。この慈悲の最大の働きを仏は持っています。それを「大慈大悲」といいます。まさしく仏は大慈大悲をもって衆生を救うために教えを説こうとしたのです。
しかし、先ほども述べましたが、言葉は真実を伝えるのに完全な手段ではありません。それは真実を示すだけです。例えば美しい満月を真実とすると、その美しさを伝えるために月を指さします。その指が言葉に醤えられます。指さされたら、その指を見つめるのではなく、指し示された彼方にある月を見ます。そのように言葉で示された彼方に真実を見ることが大事です。
言葉で言い表せない真実は「微妙」なのです。しかし、それを知るためには言葉を手がかりにしなければなりません。そのような意味で釈尊は「無上甚深微妙」の教えを示されたのです。
しかも、この教えに出会えるということは奇跡に近いのです。なぜなら、先に「人身受け難し」というところで述べたように、人間として生まれることさえ奇跡なのです。そして、人間に生まれてきたとはいえ、仏に出会うことのできない人々が数多くいます。それなのに私たちは、このように仏の教えに出会っているのです。その喜びははかり知れないものです。その喜びを「百千万劫にも遭い遇うこと難し」と述べているのです。
仏と出会い、教えを見聞きしている私たちは、その尊い教えを「受持」しなければなりません。「受持」とは、教えをしっかり受けとめ、それを保ち続けるという意味です。ちなみに仏教で「持」という漢字が使われている場合、ほとんどが「保つ」という意味で、「手に持つ」という意味はありません。