真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

仏のことばを読む六. 般若心経   その12

 このダルマ(法)は「維持するもの」であるから、常に変化し出消滅する人間や物とは別に、それ自体は過去・現在・未来と変化せずに永遠に実在すると考えられました。ダルマ【法】が実在するからこそ、ダルマ【法】に維持されたものは変化し、輪廻の世界に漂うとされました。このような考えが仏教の主流となっていた頃に、般若経の立場の修行僧は、この考え方に敢然と反論したのです。それが般若経の主要なテーマとなっています。般若経では、今まで実在すると考えられてきたダルマ(法)を観念が生みだしたも
の、単なる言葉で生みだしたものにすぎないと主張したのです。例えば、私たちは三角定規を見て三角だと分かります。そして、おでんのコンニャクを見ても三角だと言います。そうすると三角はどこにあるのかが問題になります。今まで見ていた三角定規がなくなり、おでんのコンニャクを食べてしまっても、新しく買った三角定規にも三角があり、残りのおでんのコンニャクにも三角があります。このように眼に見える物は変化しても、どの三角形も維持するダルマ【法】としての三角は別にあると考えることができます。このように釈尊の説いたダルマ【法】は永遠に実在すると主張したのです。
 しかし、般若経の立場では、三角は頭で考えた言葉にすぎないのです。その言葉を三角定規やコンニャクに適応して見ているので、三角であるという判断をしたにすぎないのです。釈尊の説いたダルマ【法】も、言葉で言い表せない真実を便宜的に分かりやすく教えるために分類して示した言葉にすぎないのであり、そこに真実があるのではないと主張したのです。
 釈尊が菩提樹下で悟り、説法を躊躇し、梵天に懇願されて説法を始めた経緯を考えれば、言葉で言い表したものが真実ではなく、その言葉の背後に真実があると考えられます。般若経の立場では、そのような真実を求めるのでダルマ【法】の実在を認めないのです。
 そして、言葉で認識する世界、言い換えれば言葉で虚構された世界を戯論(けろん)といいます。この戯論をすべて取り払い、言葉による認識が消え去った状態が空とされます。そのために徹底してダルマ【法】を観察し、空を見いだす修行が大事になります。まさしくその修行におけるダルマ【法】の観察をここでは照見と説いているのです。 
 そして、言葉で認識する世界、言い換えれば言葉で虚構された世界を戯論(けろん)といいます。この戯論をすべて取り払い、言葉による認識が消え去った状態が空とされます。そのために徹底してダルマ【法】を観察し、空を見いだす修行が大事になります。まさしくその修行におけるダルマ【法】の観察をここでは照見と説いているのです。
 

仏のことばを読む一覧