真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

仏のことばを読む六. 般若心経   その23

 以無所得故の「以~故」は「~を以ての故に」と読み、仏教では理由を表す定型句です。無所得とは現代語の意味とまったく異なります。所得はこの前に示されたのことです。は仏教では受け身を表し、「得る所」という意味になります。しかし、梵語では受け身の形になっておらず、直前の「であることにより」という意味になりますが、そこまで厳密に考える必要はないでしょう。ここでの無所得とはというダルマ(法)が実在しないということです。すなわち言葉で考えられた智慧の獲得は本当ではないということになります。それが理由で、菩薩は修行の中で智慧の完成に依拠するということで菩提薩埵依般若波羅蜜多と説きます。菩提薩埵とは「菩提を求める者」という意味で、大乗仏教の修行者を指します。 菩提薩埵を短縮して菩薩といいます。観自在菩薩も菩提薩埵なのです。ですから、ここでの菩提薩埵は観自在菩薩と考えてよいでしょう。

 さて般若波羅蜜多とは智慧の完成ですが、それはすべてのダルマ (法)は実在せず、すべては言葉の虚構であるから、その虚構を消し去ってすべてが「空である状態」という真実を深く洞察(どうさつ)する智慧のことです。このような言葉を離れた智慧の完成に依拠することが、修行において求められるのです。ここでというのは「頼りにして」「基づいて」「依拠して」という意味で、依般若波羅蜜多で智慧の完成、あるいは最高の智慧を頼りにするということになります。 次にとありますので、依般若波羅蜜多が理由で、以下の通りになるということになります。しかし、梵語ではが理由を表さず 「頼りにしつつ」「依拠しつつ」となっています。

 心無罣礙は、さまざまな心理作用を働かせる主体となる精神のことです。経題の般若心経は肉団心といって、心臓のことで、そこから核心、心髄などの意味が派生したことはすでに述べました。その経題のと違い、ここでいうは肉体性がない精神そのもののことです。 とは網をかけることを意味し、は妨げるという意味の漢字です。 罣礙で網をかけたように妨害することを表します。 罣礙に対応する梵語は「覆(おお)い」「遮断」などの意味がありますが、仏教では精神の働きを阻害するものと考えられました。般若波羅蜜多に依拠すると、そのような心を阻害するものがないとされているのです。
 

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