仏のことばを読む六. 般若心経 その26
故知般若波羅蜜多は前文で三世の仏が般若波羅蜜多に依拠して究極の完全な悟りを開くことに深くうなずき、「だから(シャーリプトラよ、あなたは) 知るべきである」と述べるのが故知ということになります。
そして、次から『般若心経』独自の、そして最も強く訴えている教えが説かれます。そこでは四種の咒(じゅ)が説かれます。それらの咒の前に是という語がついていますが、これは「~是~」と いう形式で「~は~である」という意味になります。したがってここでの四つの是は「般若波羅蜜多は~である」となり、四つの咒が説かれています。
さて四種の咒はすべて梵語ではマントラとなっており、一般には「真言」と漢訳されます。すなわち般若波羅蜜多は真言であると説かれているのです。真言とは真実の言葉です。それではなぜ真実の言葉なのでしょうか。つまりそれを唱えると、その通りに間違いなく実現されるかです。それはおまじないのようなものです。おまじないというと迷信と思うかもしれません。しかし、おまじないは誰の心の奥底にも秘められており、これを捨てきることはできません。それは人間の心の本源におまじないに頼る心性があるからと思えます。
たとえば幼い子供が転んでけがをした時、母親がしゃがみこんで、やさしく子供の傷めたところに手をあて「チチンプイプイ」とおまじないを唱えると子供は元気になります。 子供にとって母親は自分の命をすべて任せるほどの偉大な存在です。子供は母親が救いの場所であることを実感しています。その偉大な存在から発せられるおまじないは、救いの言葉として真実そのものなのです。けがをした子供にとって母親の唱える「チチンプイプイ」は真言といえるでしょう。私たちも悩み苦しむ弱い存在です。私たちにとって母親に据えられる偉大な存在とは仏です。仏の真実の言葉は日常の言葉からすれば意味不明です。しかし、それを唱えると、仏の救いの力が実現する不可思議な言葉です。それがおまじないのように呪術的なので咒と漢訳されています。
では、その初期の頃から、この呪術的な傾向を重視していました。 般若経が強調する般若波羅蜜多を智慧の完成と理解してきましたが、その智慧は単に理知的なものではありません。そこには不可思議な力が秘められています。なぜなら般若波羅蜜多を得て仏になると、 真実を見抜くことを邪魔する悪魔のようなあらゆる存在を追い払います。 釈尊も菩提樹下で悟りを開く直前に、悪魔の大群に襲われました。しかし、大地に手を触れて「悪魔よ、 消え去れ」と唱えると悪魔は退散したという伝説があります。このように悟りを邪魔するものを追い払う力は、仏が依拠している般若波羅蜜多に秘められていると般若経では受けとめました。 それゆえ般若波羅蜜多には不可思議で呪術的な力が秘められていると信じられました。
仏教では最高の智慧に呪術的な力が備わっていると受けとめます。それは現代人が知恵を理知的なものに限定するのとは異なっています。 私たちは呪術やおまじないなどを低級であると思いがちですが、そのように頭で考えることが不可思議な仏の智慧を見失うことにもなります。私たちの心に潜む智慧の世界は深く広大なのです。