真言宗智山派吉祥院珍珠山

仏教コラム

仏のことばを読む六. 般若心経   その20

 無無明亦無無明尽 乃至 無老死亦無老死尽も途中に乃至がありますので、列挙するものが省略されています。十二縁起(じゅうにえんぎ)というダルマ(法)が考察されています。十二縁起とは私たちが生まれ、老いて死ぬという人生を深く反省するために、釈尊が説いた縁起の代表的な形式です。縁起とは「縁(よ)って起こること」という意味で、あらゆる物事は必ず何かに「縁って起こる」ことを示します。そして、十二縁起では私たちの生存が根本的な煩悩である無明(むみょう)に起因し、その無明に「縁って」潜在的に認識を形成する力である行が「起こり」、その行に「縁って起こる」のが識(識別作用)であるとし、さらに順に「縁って起こる」次第を考察し、最後に生(生まれ)が起こり、生に「縁って起こる」のが老死とされます。十二縁起のすべてをここで説明することは控えますが、この釈尊の説いた十二縁起の最初が無明であり、最後が老死であることに注目しておいてください。そして、これら十二の概念も釈尊が説いたダルマ(法)なのです。したがって五蘊や十二処・十八界と同様にこれらのダルマ(法)も「空である状態」なので実在しませんから無と説かれるのです。

 そうであるとすれば、根本的な煩悩である無明が無くなった状態というのもダルマ(法)ですから、それも実在しません。それを無無明尽と説きます。また十二縁起の最後の老死というダルマ(法)も実在しないのですから、それらがなくなることもダルマ(法)として実在しないので無老死尽と説きます。この十二縁起は般若心経が成立する以前の仏教では、縁起の代表的な形式として重視されてきました。そして、それらの十二のダルマ(法)が実在すると考えたのですが、その実在することを強く否定するのが般若心経の立場です。それらはすべてダルマ(法)も言語の虚構において成り立っているのです。釈尊が示されたのは、十二縁起という言語で概念化したダルマ(法)そのものではなく、その言語表現の背後にある厳しい人生の実態を冷徹に見つめよという教えなのです。
 

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